2016年7月10日 星期日

20160710 (日) 非


孫悟空の罪と罰 Magic Monkeys’ Crime and Punishment 2016.01.23() ほぼ完成かな?
西遊記の話は仏教、道教、儒教の3つの東洋思想をがよく混じりあっている。昔から語り継がれてきており、今も語り継がれていく非常によくできた物語である。
その話を簡単にしてみよう。特別な猿が生まれた、悪さをして天界の秩序を破壊した、その罰を受け封印された、徳の高い僧に助けられた、そして贖罪のため西天取教の僧を助ける旅に出るのである。
西遊記の前半、孫悟空が天界に喧嘩を売って大暴れをする。歴史的に為政者が大嫌いで、全く信用していない中国の人々は大好きだ。今も毎日テレビで放映されている。なぜ孫悟空が天界に勝つ話しにしないのだろう。その方が民衆は大喜びするはずだ。このあたりについて考察する。
孫悟空のモデルは複数あると言われている。インドのラーマ王子を助け魔法をよく使うハヌマーン、中国に古くからある僧に使える猿、黄河に洪水をおこす無支奇など様々な意見がある。
孫悟空が負ける相手は治水の神である顕聖二郎真君である。つまり大本の話はこうなのだ。荒れ狂う河、全てを流しつくす洪水に今までの苦労を先祖代々築いてきた物を一切を失った人々は怒りにふるえたのだろう。そして、莫大な歳月をかけて気が遠くなるような人手をかけて治水を行ったのだ。傷つき、倒れ、死んでいった人も多かったはずだ。
しかし、目的を定めた人間の集団は決してあきらめることをしない。どれだけの時間をかけようと、どれだけの苦労しようと必ずやり遂げる。そういう不断の人間の努力が洪水の神を鎮める。これが顕聖二郎真君の正体である。元の話は洪水をおこす河を人間が努力を重ね治水したという話であろう。
だから、孫悟空は大暴れをした末に必ず封じられるのだ。そして太上老君の八卦炉で死なないということは不死であるわけだ。それは河はいっとき干上がることはあっても、人間がいくら努力を重ねても無くすことはできない。そして、水がなくなれば人も死ぬからなのだ。顕聖二郎真君には力でも技でも術でも必ず負け、封印される。しかし時が経てば再び大暴れをするのである。人と水は永遠に闘争を繰り返すのだ。
西遊記の話で不思議なのは天界が本当に偉そうに上から見ていることが疑問だった。おまえらが直接やれば良いのに子供の頃に良く思っていた。そう思った人も多いはずである。時の為政者が普段は偉そうにしているのにいざという時には役に立たない、という長年の中国人のイメージも影響しているのだろう。それは表層である。
ここも元の話に戻してみる。どんなに大きな天災が来ようとも、再び太陽が光を取り戻し穏やかな日々がくる。そこから人々は何度でもやり直すのである。天災が起きている時に太陽は輝かない、直接対決はしないできないわけだ。そして孫悟空の存在自体に天界が困るわけである。この辺りは大本の話を非常にうまく描写している。
作者が何人いるのかは知らないしわからないだろうが、道教の神話を基盤にしてこの話を作ったわけで特に意識はしていないと思う。おそらく道教の神話自体に集合的無意識からの投影がなされているのだろう。
治水にそう苦労しなくなった現代の日本では暴れ川、洪水などはイメージしにくい。長崎大水害は直接体験したが、被害をこの目で見ていない。輪中や印旛沼を見に行こうと思ったが、現地を見ても過去の災害の様子はイメージできにくい気がした。
手近によく体験している災害を思いついた。日本の台風である。雨と風が全てを洗い流し吹き飛ばしていく。そして去って行くのだ暴れる水と風、かなり近いイメージだろう。そして台風はその後、豊かな水資源となり人々に水の恵みを与え去って行くのだ。ここが河と違う点でもある。台風自体の治水は現代でもなお不可能だ。
古来日本人は日本の風土そのものを試練と考え、勤勉になっていったと思っている。台風というカードの表と裏の意味を本当に良く知っていたのだ。
西遊記の後半は孫悟空の話ではない。三蔵法師の話である。孫悟空は人気があるため後から付け足されたのだろう。三蔵法師ほどの徳の高い、偉いお坊様が、何度も死ぬような厳しい試練を何度もくぐり抜けなければ、授かることのできない「ありがたいお経」を民衆のために取ってくる話だからだ。
孫悟空がひとっ飛びしてお経を取ってきては意味がないのである。そしてその旅は孫悟空にとっては本当に退屈であったはずだ。襲ってくる妖怪はほぼ棒の一振りで解決しているし、取教そのものには全く興味がない、全く関係がないからである。
しかし、孫悟空が西天取教の僧を助けることには意味があると思う。旅の後、孫悟空は闘戦勝仏という仏となる。罪を許された後には人々に崇められる存在となるのである。つまり暴れない河は大きな水資源となり人々に豊かさをもたらす存在となるのだ。
元型である暴れ回り破壊しつくす洪水としての河は存在自体が罪である。しかしカードの反対側(本来どちらが表でも裏でもない、どちらも表であり裏であるためにこう書く)である農作物に水の恵みをもたらす河は、民衆に豊穣と繁栄を約束する守り神となるのだ。そのため人々に崇められる。しかし、時がたてばまた暴れ出す祟り神ともなる。つまり守り神が罪を犯し、祟り神となり罰を受けたのだ。
つまり、人間の見方によりその意味が変わるわけだ。河自身には元々そんな意味合いはないのだろう、もしかしたらあるのかもしれない。人間がそういう意味づけをしたのだ。
西遊記の物語の前半は暴れる水としての孫悟空、後半は水の恵みをもたらす孫悟空なのだ。孫悟空はそういう二面性を必然として持っている。物語にはないが、もし続く物語があれば仏となった後も時折暴れる話になっていたはずだろう。
現代の孫悟空の物語であるドラゴンボールは世界中で今もなお2億部以上も売れ続けている。時空を越えて強い力を持ち続けている現代の神話である。世界に進出した日本の人気アニメ ベスト100でドラゴンボールは1位を獲得した。地球の人々の平和を守るために戦っている悟空は決して負けることはない。どんなに強い相手であろうと勝ち続けるのである。
かくして洪水を起こし暴れまわる愚かな猿は、世界中で愛され続ける無敵のミラクルヒーローとなったのだ。古来、エジプトのナイル川流域の人々は川が氾濫すること自体を喜んでいる。肥沃な大地を運んでくるからである。ここではまた物語が違ってくるのだろう。水が少なく、水が暴れないような場所での物語もいつか調べてみたいところである。

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